今日はN響の定期公演、ファビオ・ルイージ指揮のブルックナー8番(初稿版)を聴きに行ったのがメイン活動である。
生のオーケストラをめちゃくちゃ集中して聴くという行為が、私的にストレス解消になると気付いたのが7〜8年前のこと。
知らない曲の弦パート、管パートの掛け合い、主旋律…の裏で良いメロディ出してる副旋律の楽器を探し当て、違う楽章で副旋律の副旋律、副々旋律が他の楽器に鳴らさせる…などのパターンの発見、膨らみをもたせた音型の心地良さ、音量とリズムとメロディで圧倒してくる楽曲そのものの面白さ、それを料理する指揮者の個性、指揮者の理想を形にしようと頑張る演奏者たちの力量。。
不確実な要素がてんこ盛りの、生のオーケストラを聴いて自分の中で消化して、演奏中に聴き取った理屈や事実を積み重ねた先に、エモーションが動かされる瞬間を体験するのが、実に、じつに心地良い。私はある程度脳みそを回転させた状態で感動する、というのが気持ちいいみたい。
そんなこんなで、今では履歴書に趣味:音楽鑑賞、と堂々と書けるくらいにコンサート通いしてる。
ってことで今日は上記のとおりのN響、ファビオルイージ、ブルックナー。今年はブルックナー生誕?没後?200年のメモリアルイヤーなんだそう。
しかしながらここ7〜8年で始まったクラシックコンサート通いで、じつはマーラーとブルックナーの曲目を聴けたことはなかった。なぜならこの2人の作曲家は日本国内において人気が凄まじくて、あっ、これ聴きに行こうかな〜って思ったときにはコンサートのチケットは大体売り切れている。
ブルックナー、マーラーはSNSとかで観測する限り、厄介オタ的なクラシックファン(ブルックナーおじorマーラーおじ)たちが群雄割拠してるというか。。。
特にブルックナーは自分の交響曲を何度も書き直したため、いくつもの版があるという。この複雑さ?がオタク的に受けるのかもしれない。
ってことで今までは全然聴けたことはなかった。
でも今年はブルックナーイヤー。必然演奏会も増える。ということで、なるべく聴きに行ってみようかな、と余裕をもってチケットを確保したり、初心者としてブルックナー鑑賞に一歩踏み出したという感じ。
肝心の感想。
とても良かった。各パートの音がクリアで、さすがN響、という感じのそれぞれの楽器の鳴り具合が美しかった。音楽的に振り幅が大きいのに、冷静にきちっキチッと振る指揮者にも好感度大でした。二楽章と三楽章が凄く良かった。2、3楽章は笑顔になってるのが自分でもわかった。ハッピー全開の演奏だった。
曲そのものは、わかりやすいマーチのテーマみたいなのとか、わかりやすく感動を誘うメロディや和音の組み立てが好ましくて、小学生が大人を感動させたくて作曲したみたいだな〜、とは思った。でもその分かりやすさに簡単に籠絡する大人(中年女性)なのだが。
ブルックナーおじとかブルックナーオタクおじとかはまあ、いろいろ批評するのでしょう。。。私の感じたことと真逆のことを言うのかもしれない。それはそうだろう。上記はブルックナーに対して初心者の、初々しい感想です。
ところで、フライング拍手というマナー違反があるらしい。今日のN響はそれがあった。ファビオルイージが、まだ両手を下ろしてないうちに、拍手する人がいた。
ただ最近、フライング拍手は速攻死、DEATHであるという風潮が広まったせいで、その拍手に続く拍手はなかった。みんなの白い目がフライング拍手に寄せられた瞬間だった。
ので、フライング拍手の人たち、拍手やめた。
ファビオルイージが両腕を下ろした。
途端に会場中から割れんばかりの拍手とブラボーの声。
私こういうのちょっとどうかと思うよ、そもそもフライング拍手を蛇蠍のごとく憎む人たちってなんなんだ。余韻に浸りたいとかどうとか。別に拍手鳴ってたって余韻には浸れるよね?!つーか私がよくそうなる。良すぎる演奏の後、拍手を忘れると言うか。
フライング拍手勢だって嫌がらせでやってるわけではなかろう。曲が終わった、音が消えた。良かったよ!ありがとう!!という拍手だろうと思う。
余韻を台無しにされたとか、クラシックオタクの人たちほんとにマジに怒ってるからほんと怖いわ。
演奏中に邪魔されたわけじゃないんだからえーーじゃないの。
今日の、フライング拍手許すまじの会場の圧が、フライング拍手を一瞬止めた。
指揮者もオケもやっぱそんなに嫌なのか、フライング拍手。しかし曲が終わった以上、そこから先は観客個々の思い出解釈に託される。余韻も含めて曲だ!とか言い出すなら止めてる間指揮棒振っとけよ〜とか思ってしまう。たかだか7〜8年のクラシック鑑賞者はそう思うのです。
あと今日はNHKホールに行くのに渋谷から行ってしまうという痛恨のミスを犯したので、記しておく。しばらく東京を離れていたので忘れていた。NHKホールには代々木公園駅から行け。それか駅からタクシー。中年を迎えた自分への戒めである。